2025/6/9

本店に重みを与え続ける正面看板。「鈴寅さん」とのご縁に感謝!

本店に重みを与え続ける正面看板。「鈴寅さん」とのご縁に感謝!

「鈴寅(スズトラ)さん」「寅さん」とヤマサちくわの社内で親しみを持って呼んでいるのは、鈴寅工務店社長三代目鈴木敬二氏(79歳)です。いつも作業着で何かあれば駆けつけてくれます。
ヤマサちくわには、「お出入り」「ファミリー」と言える、長いお付き合いの皆さん、会社がいくつもあります。その代表が、鈴寅さんですね。昭和36年下地工場の竣工に際し、四代目佐藤善作が鈴木議一氏に出した感謝状に、『明治8年(1875年)以来、三代に亘り……」とあります。現在まで146年ヤマサちくわのさまざまな施設建設設備の更新などのサポートをし続けていただいています。
146年すごい年月ですね。本当にありがたいです。初代鈴木乕治(トラジ)の名前から、「鈴寅」になったようです。今回初めて知りました。
そして、祖父五代目や親父六代日元彦が「よっさん」と親しみを込めて呼んでいたのが、二代日鈴木議一(よしかず)さんです。今の寅さんの親父さんです。この棟梁が、ヤマサちくわ戦後の復活の立役者の一人です

”よっさん”の陣頭指揮で建設が進む魚町本店
”よっさん”の陣頭指揮で建設が進む魚町本店
四代目佐藤善作が鈴木議一氏に贈った感謝状
四代目佐藤善作が鈴木議一氏に贈った感謝状

「よっさん」陣頭指揮の元、当時の豊橋の名工たちも加わり完成した魚町本店ビル。

1945年6月19日夜半からの豊橋大空襲により、豊橋の市街地は焼け野原となり、ヤマサちくわ本店は消失しました。終戦後、祖母幸代(五代目婦人)の下条の実家から鶏小屋を大工の棟梁鈴木議一(よっさん)とヤマサちくわ四代目五代目六代目がばらして運び、四代目善作ときぬ夫婦が住めるようにしました。そしてその隣に、10月には店舗を建て商売をいち早く再開できました。
そして1950年(昭和25年)川喜多錬七郎の設計デザイン、鈴木議一棟梁のもと、魚町本店が建設されました。いち早く戦後製材会社を立ち上げたよっさんが集めた木材があったればこそ。現存する魚町本店正面の「ちくわ蒲鉾の字と鯛マーク」は、八町の松下老人の字デザイン。二階の欄間は、坂上の大羽根問屋さんというように、棟梁の元、当時の豊橋の名工がたくさん参加してくれました。
1982年(昭和57年)魚町本店ビルが完成しました。この時に本店をリニューアル。寅さんが陣頭指揮で完成しました。今も本店正面に掲げてある看板は、この時に誕生しました。どうしてもよっさんに看板を作ってもらいたい六代目元彦は、飽海素戔嗚神社の看板をよっさんが作ったのを知っていたので、よっさんに「素戔鳴神社の看板みたいな看板が欲しい」と懇願します。78歳のよっさんが重い腰をあげ半年かけて彫り上げてくれました(清水淳史書)。今も本店に重みを与えてくれています。
鈴寅さんに益々たくさん仕事をしてもらえるよう、ヤマサちくわは美味しさに拘って頑張ってまいります。

七代目 佐藤元英

ホームへ先頭へ前へ戻る